「守・破・離」は、私の好きな言葉の一つです。
武道・武芸の教えで「守・破・離」があります。昔のNIFTYのログを整理していたら、PIMフォーラムで、守・破・離の話が残っていました(意味はgoogleあたりで調べるとすぐに出てきますが…)。
- 『守』
- 最初の段階では、指導者の教えを守っていきます。 できるだけ多くの話を聞き、指導者の行動を見習って、指導者の価値観をも自分のものにしていきます。 学ぶ人は、すべてを習得できたと感じるまでは、指導者の指導の通りの行動をします。 そして、指導者が「疑問に対して自分で考えろ」と言うことが多くなったら、次の段階に移っていきます。
- 『破』
- 次の段階では、指導者の教えを守るだけではなく、破る行為をしてみます。 自分独自に工夫して、指導者の教えになかった方法を試してみます。 そして、うまくいけば、自分なりの発展を試みていきます。
- 『離』
- 最後の段階では、指導者のもとから離れて、自分自身で学んだ内容を発展させていきます。
というものです。
どのような道にも必ず型(定石)があり、その型を繰り返し繰り返し稽古する必要があります(守)。
そして、受け継いだものを守りながら、自分にあう型を作り出し、それを新しいものとし繰り返し実行していく。
柔道などは当然ですが、サッカーや野球などでも 基本の練習をしっかりと行い、その中で選手独自もしくはチームの型が生まれていくと思います。
私は、これはすべてのことに当てはまることだと思っており、目標管理や時間管理、クリティカルシンキングやロジカルシンキング、その他今まで勉強してきたことを、定期的に基礎から勉強し直しています。これによって自分の中でそれぞれの情報に対しての型がどんどん強く(守)、今までの実績にあわせ現実的な型(破と離)ができあがっていくと考えています。離に行き着き、自分のものとなるのが、いつかわかりませんが。
最近、気になるのが、若い人に新しい技術や方法を教えると「いわれたやり方が実施できる」もしくは「頭で理解したつもり」で「すべてを掌握したつもり」になってしまう傾向があるように感じます(「守」が異常に短いし繰り返しもないので本当の意味で自分のものになっていない)。
親切に書いてある書籍が多くなり、書籍のスタイルが Howto に変わったきたのかもしれませんが、いつまでも「自分の思い込み(我流)」で、物事への対応が「主観的な対応」になってしまうようです(見た目や格好重視?見た目だけをマネしてもね…)。
実践してみると「思った通りにできない」という結果が待っているので、結局 過去にやったことをもう一度やり直すことになるのですが、表層をみている限り環境が変われば全く使い物にならない手順(Howto)だけが蓄積されていってしまいます。
ものごとの原理原則を理解してもらいつつ、基本が確実に身につくまで、我流に走らないように、自然に行動できるまで繰り返すということは、どんなふうに伝えればよいのか、迷ってしまうことがあります。
そんなことを感じ考えつつ、本日は7つの習慣と第8の習慣を勉強し直しています。